「私は1973年にフランスに来ました。ピカソが亡くなり、モンパルナス・タワーが出来上がった年です。」山田正好、YAMADAという名で活動する日本人アーティスト(1949年12月19日生まれ)は、東京の武蔵野美術大学で『パリ賞』を受賞し、フランスの首都に引き寄せられるようにやって来た。そして、現在までそこを離れることなく生活し制作している。二つの世界の間で想像力を自由に駆け抜けるにまかせ、二つの伝統芸術の境界を解き放つために、彼は自ら望んで亡命者となったのだ。
長い間、YAMADAは国際芸術都市に滞在しパリ国立美術学校でセザールのアトリエに在籍、その後クリシー通りのアトリエに落ち着く。彼は、彫刻家としてスタートした。その作品は、ポリエステル樹脂を使ったもので、人種や性別のない『普遍的な』頭や胎児である。土に触れること、粘土で形作っていくことへの強い嗜好によってYAMADAが彫刻を学ぶことを選んだのは、彼の実家が農家であることと無関係ではない。他の表現方法ではなく、まさに彫刻という表現手段こそが、彼にとって切り離せないものだったのである。
彼は自由であることを望んだ。「私の仕事は、絶えず動き続けている私の生活そのものからきています。」彼の初期の作品のひとつである5つの大きくて中性的な頭は、それぞれの口の動きだけで『こ・ん・に・ち・は』と告げている。YAMADAは、当時まだあまり上手くフランス語を話せなかった。だから、彼は自分の彫刻に話させたのである。「私の芸術的なアプローチは、まず何よりも他者とのコミュニケーションにあります。」彼は、今でもそう認識し信じている。
YAMADAは、胎児の彫刻作品でアーティストとして知られていくようになるのだが、その中のひとつにリュックサックを背負い雨傘をついている作品がある。(YAMADAの父親は 、竹で作った骨組みと油紙で、伝統的な雨傘を製造していた。)そして、他のより小さな胎児作品群は、彼の旅に連れだっていくことになる。
しかしながら、彼の人生の17年間を費やした最も重要な仕事は、メトロのポスターを小さく千切って制作したコラージュにあるといえよう。これらの作品は、ヴィレゲやロテラのような他のアーティストたちのやり方でポスターを引き裂くものではない。いや、むしろそれらは、YAMADAが個人的な謎解きをするため、或いは紙によるモザイクを作るために彼らとは違う方法が模索され、材料となるポスターは再利用され再生される。時に、YAMADAは、北斎の『波』やパエストゥムの『飛び込む人』(ポセイドニアの石棺の絵)を彼の作品に混ぜ込んでいく。彼は西洋とアジアの間で対話し、アーティストである彼自身の多様な側面の中に飛び込んでいく。常に動き変化し旅をしながら、YAMADAは『紙の時代』の期間中でさえも、彫刻を作ることを決してやめなかった。そして、21世紀になるとともに、彼は彫刻にきっぱりと戻ってきたのである。
YAMADAは、困難を探求し、新鮮さを再び見い出そうとしている。彼は、光を通させるために浴槽の底に無数の穴をあけたが、それは、偶然にも2001年9月11日のテロの日であった。浴槽は鋳鉄だったが、この時から彼は、スレート石、鉄、石、木、鉛、アクリル板や鏡など、何かから解放されたかのごとく様々な素材を使って制作するようになる。YAMADAは、彼の必要に応じて素材を手なずけ、それらに色彩を施すのである。
ここ数年の彼の作品には、奇妙な人物たちが現れてきた。それらは『四つ足』で、鉄の骨組みにヤギの皮や着物の切れ端を巻き付けている。YAMADAは、再び新しい表現を用いながら、人間の起源と終末を問い続ける。彼は、人間の軽さと繊細さの間に、そして重苦しさと愚鈍の間に、さらに彼らの足跡に、胎児からの身体の進化に連なっていく人間の運命を問い続けるのである。このような方法で、YAMADAはスフィンクスの謎を再び解いている。
アラン・ジョフロアは、YAMADAを『発見者』、『新たに創造し続ける放浪者』と表現し次のように書いている。「人は、自覚していようといまいと、己の身体の中に複数の違った人間を宿らせ、長きにわたって混ざり合った伝統を担っている存在である。YAMADAは、そのことを他者に認識させる手助けをしているのである。」
現在メダン在住(パリ近郊)